マナー違反や気まずさを想像できるなら、最初からやらない。

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「マナー違反」のことを考えるのは、自分の利益のためにマナー違反を犯したいけど、他人の価値観に巻き込まれたら嫌だと悩んでいるのだと思います。

たとえば、優先席が空いているからといって座るから、譲ったときに断られることを心配しなくてはいけなくなります。電車に乗ったときには疲れきっているのかもしれませんが、悩もうと思って座っているのと同じように見えます。

このまとめは、「しれっとやってる」なので、多くの人が悩まずにやっているのかもしれませんが、少なくとも、まとめに書いてあるようなことには、関わらない方だと思います。

 

 

今日、自分は微妙な色弱かもしれないことが分かりました

ヒトデさんの記事を読んで衝撃を受けました。本当に微妙は話しだと思いますが、色弱の気がありそうなことが分かりました。

www.hitode-festival.com

私は画像がそれぞれ以下のように見えました。

左上:6

真中上:12 

右上:73

左下:15と見えたり17と見えたり混乱

真中下:29

右下:まったく分からない、青いヒトデさん?(正解は、数字は書いていない、でした)

 

色弱の診断とは関係ないですが、私は騙し絵(トリックアート)を見ると、一瞬で両方見えてしまい混乱することが多いのです。

若い女の人が見えたりお婆ちゃんが見えたりする絵だと、脳の中でシャッターが切り替わる度に入れ替わってしまって、混乱というか、だんだん気分が悪くなります。

HappyからHappierへ : 騙し絵 トリックアート!見方や角度を変えると、違ったものが見えてくる!

ちょっと調べたら沢山ありますね。見方によって違ったものが見えてくるのですが、両方描かれていると言っても良いと思います。

たとえば真っ直ぐ線が歪んで見える絵は、絵に焦点を当てると歪みますが、焦点をずらすと真っ直ぐな線になります(よね?)これも脳の中のシャッターがバチバチ切り替わって気持ち悪くなります。

 

トリックアート図鑑 だまし絵

トリックアート図鑑 だまし絵

 

 

年齢と共に、古い映画や小説の素晴らしさに気づき始めている。

私は年齢が上がっていくことと並行して、新しいものの良さよりも、古いものの良さを感じるようになっています。

なぜこれまで新しいものが良いと感じていたかというと、新しいものは古いものを包含しているはずと思っていました。あえて古いものを知る必要はないと思っていました。

しかし、そんなことはありませんでした。

その理由は「時代の空気」です。時代の空気だけは、新しいものでは再現できないのです。技術が上がってしまっているというのもそうですし、敢えて古く作るもは偽物にしか見えません。

映画でしたら、古い白黒の映像をいくらデジタルリマスターしても、今のブルーレイのようにはなりようがなく、時代の流れには抗えないのです。

作品の素晴らしさもそうですが、年齢と共に、自分の知らない時代の空気の魅力に気づいているとも言えそうです。もしくは、死に向かう私がノスタルジーにあてられている可能性も捨てきれません。

映画のレビューを書いていて思うのは、こういうことは自分で気づくしかないですし、気づくかどうかは運命でもあり、気づかなくても構わないことなので、良さを伝えるのは難しいです。難しいですが、改めて文章力を高めていきたいと思いました。

 

 

光文社古典新訳文庫・駒井稔編集長が熱く推奨する「今こそ読まれるべき古典」79冊

光文社古典新訳文庫・駒井稔編集長が熱く推奨する「今こそ読まれるべき古典」79冊

 

 

人が見たいと思う映像は3DやVRではなく、2Dだった。

私たちの世界の見方は、実は2D、平面に近いものなのではないかと思うようになってきました。

なぜなら3DもVRも、どうしても違和感が拭えない。慣れとか、そういう問題ではなく、生理的な問題で受け付けません。

変わって4K、8Kと平面の画素密度を上げていくと、平面であるはずの映像に奥行きを感じるようになります。

アップコンバートなどではない、本当の4K動画を見ると、3Dなんかよりも感動するはずです。 

小説の執筆もビッグデータ活用の時代がきた!

タイトルは言い過ぎですが、もはや小説は一人で作成するものではないということを思い知りました。それは、小説の執筆をクラウドソーシングで他人に発注するということを、個人ができるようになったからです。

出版社でなくとも、大勢の小説家を雇うことをできるようになったということです。それも、小説を書きたいという人が多いほど競争原理が強く働くので、限界まで安価に雇うことができるようになります。

これは小説家を馬鹿にしているのではありません。小説家になりたいならば、そういう現実を受け入れなければならないと、私は考えています。

文学賞に投稿する小説ですら、自分が書いたものでなくても良いのです。元々そうだと思いますが、一人で書くという前提では事例が出てこないだけです。

もし本当に、クラウドソーシングで集められた小説を編集した作品が文学賞を取り始めると、その事実に耐えきれない小説家が訴える事案が発生するかもしれませんが、そのときがまさに、白日の下に晒される瞬間だと思います。

面白い作品を作るために必要な能力は、創作力より編集力となっていくでしょう。創作力は目に見えないところがあることと、ある程度の力を超えると評価が難しくなることから大勢が競争に参加してしまうので、どうしても過当競争となります。それに比べ編集力は、あまり注目されないうちは参加者が少ないと思います。

これまでは編集の技術がある人は出版社などで、編集者として作家一人一人を支援して出版するというのが一般的だったと思いますが、これからは個人の編集者が複数の作家の作品を編集者としてまとめあげて、出版社に作品を売ることができるようになるかもしれません。