資本主義を乗り越えろ!私たちの人生は「余暇」で出来ている。

3年半ほど前に、概念になりたい、神になりたいという言葉を残して消えていた筆者でございますが、人間として復活です。

これからこのブログでは、

たった10万円を元手に経済的自由を求める

という、神とはほど遠い世知辛い世の中で愚直に生きる姿を見せていきます。

私たちは人生の「余暇」で出来ている。

資本主義における「労働」に幸せはない

私たちは労働において幸せになることはない。

もしあなたが労働にやりがいを感じていたとしたら、それはまやかしである。

資本家が言う「仕事で自己実現してください」というのは、決して労働者を大切にしているのではなく、より生産性の高い仕事をして欲しいからに他ならない。

「社員の幸せが会社の幸せ」のような一見すばらしいと思いがちな標語も、労働者のやる気をブーストするために作られた言葉だ。

「やりがい」や「自己実現」といった、賢い資本家の言葉に騙されていけない。

そもそも私たち労働者は、労働で幸せになる必要はない。

富の再配分は絶対に行われない

資本主義の構造はマルクスによって説かれている。ピケティが説く「富の再配分」は不可能である。

それは、資本家が労働者から搾取する構造であり、搾取しない構造があるとしたら大問題なのだ。

なぜならば、搾取されることこそが労働者の価値なのだから、搾取できない状況に陥るということは労働が無価値になることに他ならず、資本家、労働者共に生きていくことはできない。

資本家の役割は、労働者が再生産できる分の給料を渡して、残りは余剰価値として自らの価値を高めることである。

家で休み、食事をして健康的に明日も働いてもらい、さらに自ら勉強して成長してもらうために、必要最低限の給料を渡す役目を果たせばいい。またこの給料には、家族を作り次の世代の労働者を作り出す費用も含まれている。

資本家と労働者の役割はこれ以外になく固定されたものなので、私たちが一人一人の人間として幸せになるには、労働以外に幸せを求めるしかない。

労働者は職業選択の自由がある

職業選択の自由があるといっても、と言いたくなる人もいるだろう。現実的に給料が低すぎて生活がままならないという問題がある。

しかしこれは富の再配分の問題ではなく、市場価値のない分野の仕事をせざるを得ない環境に問題があるのだ。そしてもう1つは、その仕事の市場価値が低くなっていることが問題である。

もし低賃金の問題が資本家の怠慢であれば、やがてその仕事は滅びる運命にあるので、労働者が敢えてその職業を選択する理由はない。

労働者には職業を選択する自由がある。ここで大事なのは、自分にはこれしかできないと思わないことだ。

労働で時間を無駄にせず「余暇」を作り出す

余暇はあればあるほどいい。人生の最後に「もっとやりたいことをやればよかった」と後悔することはあっても、「もっと労働したかった」と後悔する人間はいない。

極端な話し、1日1時間の労働で資本家たちを納得させることができれば、残りの23時間は余暇になる。

私たちは無駄を省いて労働者のために生産性を上げるのではなく、無駄を省いて自分のために「余暇」を増やすべきなのだ。

「余暇」こそ、私たちが一人の人間として生きられる、もっとも大切な時間。

「余暇」に自分の時間を過ごすことで、私たちは幸せになることができる。むしろ「余暇」を過ごしている時間は、敢えて「幸せ」という言葉を使わずとも、生きた時間として自分の人生に残っていく。

私は10年以上余暇にあちこちでブログを書いていますが、いつ振り返っても、よかったとしか思えません。この気持ちが幸せということでしょう!