自己言及が創作の壁となる。
創作の基礎を身につけ、経験とそれを活用する力をつけていく過程において、多くの人は自己言及に陥ります。
音楽家は、歌うことを極めるために「音楽を歌うこと」を歌にする。
画家は、絵を描くことを極めるために「絵を描く自分」を描く。
小説家は、小説を極めるために「小説家の物語」を書く。
役者は、役者を極めるために「役者の役」を演じる。
その壁を乗り越えた人が、天才の領域に近づくことができます。
24時間、起きない日・
目覚ましをかけずに起きる習慣を身につけようとしたのですが、まさかの「丸一日起きない」という事態に陥りました。
しかし毎日更新するってすごいことだと思います。毎日ちゃんと起きて活動しているということですから。
1日寝ているような人間には到底無理だということです。私はもう、瀬戸際に追い込まれています(笑)
言葉が無力なのは、書いてしまうから。
タイトルが決まったらもう言いたいことが言えてしまった気がするのですが、インターネットを見ていると、異常なまでに気を使われた弱い言葉ばかりで、文章を読む楽しみを失いそうになっています。
やはり言葉を無力なのかとまで考えてしまうのですが、それはこの私の記事のように、書いてしまうからだとも言えます。
書いてしまうと、どうしても嘘っぽく見えてしまうところがあって、その理由は文字にしてしまうからではないかと思い、暗澹たる思いに至るのでした。
新しいことを2つ始めている
今年に入って、じわじわ新しいことを始めています。ルーチンワーク化されると、新しいことをやっているという感覚も忘れてしまいます。
その1つは、IT系のプロジェクトマネジメントの学習。2つめは神話の勉強。
この2つはまったく繋がりや共通項がありません。
プロジェクトマネジメントはこれまでやってきたことを振り返り資格を取ることがとりあえずの目標で、食べるための仕事を楽にするための活動です。
神話の学習は、自分が神話になることがとりあえずの目標、ではなく、映画を読み解き楽しむ力をつけるための活動です。
別のブログを立ち上げようとも思いますが、このブログのネタにでもしながら、考えたいと思います。
日記により毎日を消し込んでいく。
去年の9月から、毎日手書きの日記を書いています。
これまで日記など書いたことがなかったことから、日記を書くことによってどうなるのか想像すらできず、それでも毎日続いてきました。
感覚としては、振り返ることができる資料を残すことで、何かしら人生に満足感が表れてくるのだろうと思っていたところがあります。
日記を始めて半年くらいが経ち、日記を書くということは何だろうと改めて考えてみると、まるでその日その日を消し込んでいるようにも思えてきます。
今日という日が終わったという印をつけていく感じ。繰り返される毎日に、折り返し地点をつくる。微少な差異を残し、また同じような明日がやってくる。
目的はこれだったんだと。今日もいつもと同じような一日が終わったこと、そして明日もきっと今日のような一日になるということを知り、安心する
ために私は日記を書いているのです。