明るく前向きになれない理由

なので当然、話しを盛ることができません。ブログも低空飛行。ごくたまに調子に乗るときがあって、それでもこのブログの開始当初のような、ブログ始めたよ!というくらいのものです。

私は昔から、プロマネや営業的な立ち位置を通じて、独立しようぜという誘いなどがありましたが、そういう人に限ってめちゃくちゃ明るく前向きに働いてるので、私の方向性とは真逆なわけです。真逆とは思われないのが私の悩みでした。

つまり場面によっては、それなりに前向きになれるのです。たぶんそれは、自分が個人ではなく、組織を背負っているときです。守るべきものがあれば、自分など関係なく、やるべきことができる。

個人的なことでそれができないのは、理由がないからです。別に誰かが私を裏切ったり傷つけたりするわけじゃないのですが、理由がないと何も出来ないのです。

 

日本の実写映画が面白くない潜在的な理由

日本の映画が面白くないのには、潜在的な理由があります。それは風景が良く分からないという問題です。

日本は撮影が出来ない場所が多すぎます。例えば、渋谷は基本的に映画の撮影ができません。申請したとしても、まず許可が下りないそうです。理由は映って良いもの悪いものの区別を付けられないからです。

時折、レインボーブリッジや法務省などの撮影許可が下りたりすると、それが話題になったりします。しかし完全閉鎖をする必要があるなど、いつもの風景ではなく、安全に守られた風景を撮影することになります。

インディーズ映画でしたら、取り締まられることを覚悟でゲリラ的に撮影を行うことはできるでしょうが、メジャーな映画では不可能です。一般人を巻き込んだ時点でちょっとした事件になります。

人間生活のとある一面において、映画に映って悪いものというのがあるという世の中はどんだけ刹那的で、未来に対して都合の悪い生活をしてるんだと思ったりしてしまいます。

日本人は映画を文化的な産業、文化的な財産だと位置づけていないから、そもそも作り手以外、誰も身近な場所が映画の舞台になるということを望んでいないというのが現実でしょう。

日本の都市の景観が広告だらけというのも、風景の価値を貶めていると同時に、これが日本人の感性だというしかないのです。

かわって日本ではアニメの人気が高く、アニメの舞台になった場所に聖地巡礼などをするほどのファンができたりするのは、アニメなら撮影許可などの縛りなく風景を描くことができるからだといえます。

これは観客が見たいものを見れているということだと思いますし、アニメの方が風景の歴史が残り、文化的な価値があるのかもしれません。

 

日本映画史110年 (集英社新書)

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友達がクリエイターだったら、友達価格なんかじゃなく、むしろ助けてあげよう

クリエイターは友達に値切られるらしいということを知り、とても悲しくなりました。応援しないんだ!って(笑)

自分の自信の無さは、同じクリエイターたちの価値を下げている - 3min. <スリーミンドット>

若い方がお金がないんだから、友達だったら多めにあげてもいいくらい。

2016/02/06 10:49

これを読んで思ったことがあります。それは、友達はなぜクリエイターであることを知っているのか?ということです。

クリエイターを通じて知り合った友達なら分かります。またクリエイターになりたいということを共有していた友達なら分かります。そういう友達が、友達価格とか言ってきているのだとしたら、最初に書いたとおり、ちょっと悲しいですね。

しかし、それ以外の他人に自分がクリエイターであることをわざわざ伝えるということが私には理解できません。クリエイターであることを触れ回っていたがゆえに近づいてきた人など、友達なんかじゃないと割り切るのが良いのだと思います。

 

孤独感は客観的な世界がもたらしている

世界を客観ではなく主観で見通すことができれば、孤独感は癒されるのだろうか。

私たちは、世界を客観的に見ることを強いられています。概念に近づくほど、頭が良いとされ、客観的に見ることで正しく理解できるのだと信じられています。

しかし、私自身は主観でしか世界を見ることができない。客観的に見ようとする私は、私自身ではないのです。私が見ている世界のうち、私的な部分を排除した世界が客観的な世界なのです。

客観的に世界を見ることができるようになると同時に孤独が生まれます。客観的な世界には私はいなくてもいいし、客観的な世界では私は私でなくともいいのだから。

 

いのちの場所 (シリーズ ここで生きる)

いのちの場所 (シリーズ ここで生きる)

 

 

 

 

映画「屍者の帝国」を観ました。

伊藤計劃がプロローグのみ書き残し、続きを円城塔が書いた「屍者の帝国」の映画版を観ました。

死んだ人間を蘇らせて道具として使うというのは、実現したら本当に考えそうなことであることに、ある種のリアリティを感じます。

我々人間がそれぞれ個別の存在であるのは、私という存在が、魂(心)として存在しているからであって、魂が存在しなかったら、個別という概念がなくなります。

そうなったとき、コントロールされる側になるしかありません。コントロールされる側が幸せであることは絶対にあり得ないのだと、改めて感じることができました。