私は「特定の差別を語る人」を認めない。「キモいでしょ?」と人に聞ける心理とは。

ブログを書いていると、主語は常に「私」であることが大切だと気づきます。また、それと同時に、私が主語である以上、言葉は正しく使いたいとも思います。

気にしすぎると、何も書けなくなりますので、ほどほどにしたいところです。

もし同性愛を「キモい」と感じるとしたら、最大の理由はおそらく自分自身の中にある同性愛的傾向を嫌悪しているからだと思う - しいたげられたしいたけ2

差別を嫌う人は、「差別する人」のことを差別できなくて苦しいというのもあるのかなと思います。

2015/12/01 10:59

 

海老名市議がたたかれてるけどお前らホモのことキモくないの?

よく分からないことにコメントしようすると、名無しでしか語れない本音となって返ってきます。

2015/12/01 11:03

 

先日の私のはてブコメントです。

差別というのは人間の自分を守るための本能なのですが、本能といっても殺人ほど許されないことだとも思えないので、法律などによる「社会の合意」で取り締まることもできない、微妙な事柄です。

でも、暗黙の「社会の合意」があって、それがおそらく「差別はいけないもの」なのだと思います。しかし実際に罰せられなければ、それについて何か言える権利を得たと思う人が出てきます。

だから「人ぶっ殺したいでしょ?」とは言いにくいものですが、「キモいでしょ?」とは聞けてしまう。

「君がその対象だったらどう思うの?」と聞いたとしましょう。

君はおそらく「別に私はそう言われても嫌じゃない」と答えると思います。でもそれで終わるわけにはいきません。

なぜなら、あなたは「嫌なことだという前提で差別をしている」から、なんらかの形で嫌な思いをしてもらわないと、「差別をされている人」の気持ちはおさまらないでしょう。

私は差別をされてきたので、差別される辛さも、差別をすることの気持ちよさも分かります。差別される人ほど、差別をしてしまう。それはもう人間の本能だから、私は諦めます。でもそれを知らない人で自分勝手に差別を語る人を、私は認めたくないのです。(人を認めない私もまた差別をしていますが)